明治も、半ばとなってここを注目したのが、1887年当時の府知事だった建野郷三であった。ここに広大な都市公園を夢見るのです。その当時は次のようでした。
「新世界興隆史」によると、「明治初期、この辺りは、田や畑の連畝であって、付近といえども名呉橋以北日本橋には、グレ宿と称する、主として盗人故買者等無宿者相手の安宿3、40戸あったのみで、その西裏は所謂、長町裏の一部をなし・・・今宮村はその南西に延びて点在し、辻の札(公文書を掲示する場所)がその咽喉をなしていたのである。・・・。(中略)明治18年には南海鐡道が今宮を経て大和川に通じ、22年に関西鐡道も敷設せられたけれど、明治30年頃までは、夕日橋から広田の森を離れ新金比羅に至る間のごときは、人跡まばらな原野のみで、昼なおすごいほどであったというから、明治中期の状態も略々(りゃくりゃく)さっせられるる訳である。」
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明治32年の 新世界付近 |
建野知事の、都市公園建設の夢は知事更迭という事態となって消える。その夢を引き継いだのは、後世の知事だった。
この頃、大阪の人口は、増えつづけます。南大阪の開発を計画していた大阪府の考えをいち早く察知した民間業者は、ここ今宮村で「眺望閣(ちょうぼうかく)」を1888年(明治21年)今の難波駅の南に完成させていた。木造5階建ての屋上から市街地が見渡せる展望台を中心にした遊園地でした。
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| 眺望閣 |
(北区ではこれに刺激を受けて「凌雲閣(りょううんかく)」が建てられた。木造9階建。1889年(明治22年)落成した。他にも生玉富士などの高い建築物のちょっとしたブームであった。)
その後、ここには「今宮臥龍館(がりょうかん)−自動鉄道 今宮臥龍館−−」と名付けられた遊技場も造られた。(1890年開業)。移動型のローラー・コースターを中心とする遊技場で、2本の線路を持ち、コースターに片道づつ傾斜がつけられて、人は片側通行で坂道を下る仕組みになっていた。100m位の坂道を、15秒位で下り降り、往復楽しめるようになっていました。
「今宮商業倶楽部」(「偕楽園商業倶楽部」と称した)という、いわば博覧会の前身に近いものができてきます。(1889年創立)。地図によると、場所は今の新世界の北入口に近いところ。かなり大きな規模の娯楽商業施設で、その設立趣意書によると、内外の商業者の出品を募集・陳列し、偕楽園としての娯楽施設も併設するようなっている。
常設の物品陳列所としての役割と同時に、5000坪の広さを利用して、洋館5階建ての(最上階にはドーム状の展望台もあった)本部のほかに、内外の商品を陳列する館。蒸気力を誇示する館。色々な機械類を説明する館等があった。それぞれ趣向が凝らされた館が何棟かあった。
偕楽園には、池がありそれをめぐって料理をたべる所や談話室、温泉、舞台、玉突き場などの、一種の遊園地のような施設になっていて、誰でも入場料さえ払えば、自由に入ることが出来た。またその隣には庭園も造られ、一大娯楽遊技場的であった。しかしわずか12年でその役割を終えてしまう。次の博覧会用地として大阪市に売り渡されたのだった。