新世界の歴史 - 博覧会の跡地をめぐって

「通天閣」完成

1908年、市電東西線・南北線が開通し、梅田から恵美須町までの市民の足が確保された。(堺筋線は、1912年開通)。

1909年(明治42年12月)念願の「天王寺公園」が開園された。博覧会の跡地東側のうち8万坪( 約26万平方キロ強)に建設された。残った土地(2万2千坪)を「大阪土地建物」(明治44年8月設立)に一括払い下げる事となった。「大土地」は第1期、第2期と工事を進めていくことになった。
明治38年明治42年

まず「新世界」を一大勧楽地に開発し、北半分を「パリ」をモデルにした街づくりにした。通天閣の足元から、道路を三方向の放射状に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と延ばして、それぞれには、誘致すべき業種を想定して造られていた。

南半分は、アメリカはニューヨークの「コニーアイランド」に模して造られた。都市型遊園地空間として設定され、中央は「ルナパーク」と名付けた。この目玉として、当時は流行っていた、展望台を造ることにした。「眺望閣」や「凌雲閣」等が人気を博していたのに、目をつけて、花のパリにある「エッフェル塔」に似せて、通天閣(高さ75メートル ※)を設計した。
《※一説によると64mとも言われている》
イルミネーション

1912年(明治45年)7月「通天閣」を完成 開業しました。(命名者は儒学者の藤沢南岳氏です。)「新世界」開幕の日です。大阪市民にとって新世界は、正に New World でありました。

通天閣を中心に、南にルナ・パーク、芝居小屋や映画館等が軒を列ねて建ち、恵美須通には、飲食店が多く営業し、恵美須駅から人々の波が絶えませんでした。一帯はさながら世界各国のミニチュアの如く、アメリカ、フランスを始め東欧からアジアまでの雰囲気が味わえました。今のテーマパークの先駆けとなった言えます。
当時の新世界通天閣

当時の書物には書かれています。
「観よ、巍然(ギゼン)として雲セツを磨するエツフエル式高塔通天閣を。・・」 と興奮気味にオーバーに語っている。

当時としては、75メートルもの高さのうえに、下部が凱旋門の様に造られ、しかも、その天井はきれいな絵が書かれていた。浪速っ子でなくても、人々は、大いに感激したのでした。

ルナパーク内の遊びの仕掛けは、多種多彩でした。「サークリング・ウエーブ」と言う、上下動しながら回転する乗り物や、「音楽堂」。様々なアトラクションを上演する「清華殿」と言う大衆演舞場、「不思議館」等もあった。

中でも今にも伝わる特異なのが、「ビリケンさん」だった。実は、1908年アメリカ生まれの人形なのだが、10年ごろには日本に渡って来て、 ルナパーク内のホワイトタワー内に祭られ、福の神のようにもてはやされた。一時行くえ知れずであったが、最近1980年になって、再び通天閣内で復活して、鎮座している。
1号館朝日劇場浪速倶楽部

ルナパークの以外にも、ろんな興行が催されていた。とり囲むように、映画(当時は、活動写真と言った)・演劇を主とした興行街を造る工事は、開業と平行して、どんどん進んでいった。

1913年(大正2年から) 第2期工事に入り「噴泉浴場」が建てられた。円形で人が泳げる程の、広さと深さのある外側と、中央から滝のように湯が落ちてくる内側の、二重の円形浴場であった。また、「ラヂューム」を使った湯が、大人気となり、浴場の事を「ラヂューム温泉」と呼ばれるようになった。
明治45年西から東を見て新世界・恵美須門

ルナパークの内は「天王寺勧業博」で得た遊具建設・運営技術にさらに新しい工夫をこらして、かってない洋風の異空間をつくりだしていた。いま一つは、通天閣からルナパークヘ、特に短い距離ではあるが『ロープ・ウエィ』をつけ「楽園を横断し」「飛行機の快をむさぼる」と言うルナパーク内を見下ろす仕組みになっていた。
恵美須通ジャンジャン横丁から

1908年(明治41年)
天王寺美術館のそばには、慶沢園(けんたくえん)がある。もと住友本邸の庭で 庭師小川治兵衛が築造した。
1921年
茶臼山南面に住友吉左衛門の邸があったが、1926年、回りの土地と一緒に住友家から大阪市に寄付されている。
1915年(大正4年)
天王寺動物園1月に開業。ここに、大阪でも数少ない庶民の一大勧楽地が完成した。そして、大阪市民はこぞってここを訪れた。
1920年(大正9年)
ライオン本舗との契約も成立し、通天閣の側面に電光文字で、ライオン歯磨きの広告がまぶしく点灯しました。新世界の繁栄も決して一本調子でではありませんでした。
1923年(大正12年)
早くもルナパークは閉園しました。