1943年(昭和18年)1月 通天閣の下の「大橋座」から失火、通天閣にも燃え広がり、鉄骨が危険なほどむきだしになりました。当時、戦争下の日本は次第に追い詰められ、鉄骨資材に事欠く時でしたので、結局「通天閣」は解体されて、大砲や砲弾に供出されました。
1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で、新世界一体は戦災を受け、跡形もなく焼け落ちました。
1945年8月 終戦のあと、新世界も復興の道のりをたどりました。中でも映画が一大ブームとなってからは、東映・東宝・松竹・日活・大映等の封切館を中心に、娯楽場としての新世界は、第2期の繁栄期を迎えようとしていました。
戦後の建築ブームによる大量の日雇建設作業員の必要から、釜が崎が発生し、その人々の一日の疲れを癒すのに、安くて気さくな町として人気を集めていきます。「庶民の町」ともてはやされだしたのは、この頃でした。
そのころ訪れた、作家の林扶美子が小説『めし』のなかで、ジャンジャン横町のことを書いて、それがジャンジャン町を全国人気に押し上げてくれました。
通天閣の再建が、人々の口に登りだしたのもこの頃です。
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| 通天閣火事の跡 | 芸妓さん達のラジオ体操 |